昭和46年06月08日 朝の御理解



 御理解 第72節
 「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし。」

 おかげはなしとはっきり断言をしてありますね。こういう心がけならばおかげはある、こういう心がけならばおかげはなし、とこの様にはっきり教えてございますから、おかげの受けられない人は、先ずおかげはなしと仰しゃる方になっとる訳ですから、改めていかねばなりませんね。おかげがあると、こういう状態になればはっきりおかげがあると仰しゃるのですから、教祖様の仰しゃるところに精進させて貰う。
 、ここではおかげはなしとこう仰しゃる、おかげはなしと、なら他のことはどんなに出来ておっても、務めておっても立派であっても、この一点だけでも、ははあ自分はおかげ受けられんのだなあと、ひとつ分からにゃいけません。おかげはなしと「人間を軽う見たらおかげはなし」と、果たして私どもは人間を尊重した見方というかね、人間を本当に大切にしておるだろうか。
 軽う見るという反対は重う見ると言う事、だから尊重すると言う事、相手の人格を尊重すると言う事。あの人は人格者だから尊重しとるけど、この人は軽率な人だから軽く見ると、それではおかげにならんのですね。仲々あの人は行いが立派だからその人は尊重する、けどあの人は行いが乱れておる、根性が悪い、どうもあの人は隅には置けない、という人は軽く見る軽視する。
 するともうおかげは無しと言う事になる。こういう心がけがあるとおかげがある、とはっきり教えて下さるなら、本当におかげのあるという心にひとつ本気で取り組んでいく、拝んで頂くような心になればおかげがおかげになると、おかげがあるとはっきり仰しゃる。それで自分の都合のよい人とか、事いらだけは有り難い。お野菜一本切らして貰うにも、神様頂きますという心あらばおかげになる。いわゆる障ることなしと仰しゃっとられる。だからそれをはっきり教えて下さる。
 今日の御理解の場合は、そういう事ではおかげはなしとこうはっきり断言しとられます。それは「人間を軽う見な、軽う見ればおかげはなし」とこう仰しゃる。そこで人格が立派だという人は尊重して見るけども、どうもあの人はと思う人は、自分の心に染まない人はそれを軽う見る、いわゆるあれがと言った見方をする。そうしたらもう人間を軽う見ている、ですから軽う見たらおかげはなしとこう言われる。
 どうでしょうか、軽う見てはならないものを軽う見てるような事はないでしょうか、本当に私どもが軽率に人を軽う見てる事はなかろうか、それではおかげは無しとこう仰しゃる。そこで私は七十二節は、人間同志が拝み合うて行くということ、人間同志が拝み合うて行くこと、拝む相手であり、拝む対照であるならば、これは一番最高に頂いた訳になるでしょう。いわゆる拝み合いの生活、私どもが本当にびっくりするように、成る程おかげが受けられんなあと言う元を持っております。
 ですからそこんところを、いよいよ煎じつめて参ります。 先ず何というても、人間を軽う見らんですむと言うことは、自分自身がまず分かる事だと思いますね。自分自身が段々分かってまいりますと、軽う見られなくなって来る。自分の周囲の誰かれを眺めさして頂いても自分よりも確かに立派だ、全般的じゃないだろうけれども、この人のここには真似が出来んと言ったようなものを、相手が持っているのです。してみるとそこからでも相手を尊重さしてもらう、そこだけでも相手が拝めるわけです。
 自分が分からんと自分が良かとのごと思いますから、自然軽く見ます。自分が頭がよいと思うと、頭が悪い人を見ると、あれは頭が悪いと言うて軽蔑する。自分が器量がよいと器量の悪いものを軽く見る。特に夫婦の間に於いてなんかそうです。家内がお多福さんに見えてくる時には、自分自身が「ひよっとこ」である事を悟らにゃいかんです。家内だけがお多福さんに見えてくる。
 自分が美男子のごと思うとる、そこに夫婦の和がくずれる。相手をね軽う見るような心が起こった時には、自分自身が軽い自分である事に本当に見極めなければいけません。でないとおかげはなしと仰しゃるのですから。昨日は総代会でした、まあ遅うまでいろいろお話させて頂いたが、結局自分自身を掘り下げる以外にないと言うところで終りました。仲々人の事は分かるけれども、自分の事が分からん、分かっておっても自分の事は棚に上げてしまう。で結局は相手を軽う見る結果になってしまう。
 本当に自分の事ちゃ分からんもんだと昨日はいよいよ話合った事です。もう一月以上になりましょうか、私は家内を軽う見とる訳じゃないけれども、軽う見とるような振る舞いやら、言葉遣いやらをする。自分は軽う見とる訳じゃないけれどもと言うところに既に軽う見てるわけですね。家内のおかげで家内のおかげでと言いよるけれども、そんならそういう態度やら、そう言う事は言えない筈だけど、何か私は誰でもそういう訳じゃないですけれども、お前が馬鹿じゃけんでとか。
 お前は馬鹿じゃなかかそげん事してと、お前が馬鹿じゃからと、私はこう言う事を連発するのですね家内に、そしたら家内がほんなこて私が馬鹿じゃけん、言われてもしようがありません、と非常に哀しい顔をしました。ある朝その時に私は自分の心に、五寸釘を打たれるような気持ちが致しましてね、もう家内に言うたわけじゃありません、もうこれからは馬鹿ちゃ言わんぞと思いました。おかげでここ一カ月の上、家内に以来馬鹿と言わずに済んどります。
 家内に有り難いと思うとる、あれが家内以外の者だったら、俺が何が馬鹿かお前の方が馬鹿じゃろうもん、と言われる処でしょう。家内だからこそ黙って受けておる、その黙って受けさせておると言うことは、もう既に家内を軽う見てる、本当に自分が馬鹿だから馬鹿と言われても仕方がないと、寂しい顔を家内が致しました時に、あ-どうしてこういう事に気が付かじゃつたろうかと言う位に心の中にそれを感じた。以来おかげで馬鹿と言わんで済むようになって来た。
 ですから私どもがですね、ふっと心に気付いたり、それが頭で分かった時本気でそれを心でこなさして貰う、修行としなければいけませんよ。心でこなさんところに何時まで経っても頭で分かっておっても、頭で分かってただ形で表しただけでは心が伴うとりませんから、それは本当に相手を尊重した事にはなりません。本当に相手を拝むという気になっとりません。人間は万物の霊長だとどういう人でも、どう言う事にしなければ居られない様な人でも、よくよく思うて見ると、神様の氏子としての見方が出来る。
 おかげを頂かなければ万物の霊長としての値打ちはない。自分だけが万物の霊長で他は馬鹿のごという、これではねおかげにならん。私は今日ここんところですね、軽う見な「軽う見たらおかげはなし」と、仰しゃるのですからはっきりと、だからそのおかげと言うことはどう言う事だろうと思うですけども、形の上に表れて来るおかげの事もありましょうね。自分自身の心がです、救われないです。
 もうおかげがない証拠です。頭では分かっとるけんああこげん思うと思ったっちゃ、神様が有り難いと思う事を許しなさらん、これがおかげがなしと仰しゃるそれなんです。頭で分かり心でこなし、そしてそれを形に表す、そこに相手が自然拝める、拝むという心がすでに救われて居るのです。私ども本当に助かりたい助かりたいなら、そういう手近なところに助からない元があったり、又そういう手近なところに助かられる道があるのですけど、そこを疎かにしておる。
 「真に有り難しと思う心はすぐにみかげの始め」これは形の上のおかげでございましょう、けれどもすぐにとこう本当に相手が拝める時、もう拝める心は助かっている心だと思う。そういう心に形のおかげが伴うて来る、だと言う訳です。あの人は拝めるけども、この人は拝めない、昔もう二十何年前の話だけども、私が秋永先生の所の、ここの浮羽郡の馬渡と言うところでしたが、前親教会から月に一回必ずお話に参りました。その時に私が、この頃は私は親先生を拝めない様になったと言うお話をしたんです。
 ああそれが問題になりましてね、丁度いまの若先生も一緒に見えとられました。それで恐らく帰られて、大坪さんの話はこげな話をしたと話されたんでしょう。親先生が拝めんごとなった、とまあそういう事から、そういう時分からいろいろ問題が問題を生んで行きました。それはどう言う様な意味で言うたかと言うとです、自分で自分の心が拝めなくなったと言うような事をいうたんです。
 ここでは余りないですけど、他所の教会では、ここの御結界に座るとポンポンと私も親教会で柏手を打って、御結界で座わっとられる先生を拝むようにしたのは、まあ三井教会では私が初めたような感じでした。それまではそう言う事する人はありませんでした。ところが本当に御結界に座っとられる先生が拝めるようにならなければ、おかげは頂かれんと言ったような話をいつも聞きますからね。本当に拝ませて頂くという稽古をね、柏手を二つ打って先ず御挨拶をする。
 だがそういう形の上でならば拝んでおるわけである、けれども心から拝めなくなったと言うのは御結界に座ってござる人を軽視するという意味ではない。ここにたとえば藁人形が座っておっても、やはり拝まして頂く心があればおかげになる。お取次の働きはもうそこに表れると言われております。また事実そうだと思います。ところが拍手して頭を下げるだけなら誰でもできます、けれども心から尊敬する、心から拝まなければおられないと言うことは仲々できん。だから私の信心が一歩前進したと言うわけなのです。
 拝めなくなったと言うことは、それはどこに気が付いたかというと、自分自身の心が拝めなくなったから相手が拝めなくなったんだと言う事を言ったんですけど、そこが分からずに親先生が拝めなくなった、と言うところだけが問題になつた。でこの頃私が増長してきたと言うようなふうに見られる様になって、私があちこちにお話しに参りますことを、非常にそれを止められる様になりました。もう行かれん様なふうに、まあそういう風に仕向けられました。
 けども本当いうたら、私の信心を褒めてさえ頂きたい思いだった訳です。私共の信心が一歩前進したという意味の事だった。今まで拝みよったのは形だけであったけども、本当に心から拝むようになったら、心から拝めない原因は何処にあるかと言うたら、自分で自分の心が拝めないところから、相手が拝めんようになったんだと気付いたわけです。ですから信心は一段深うなった訳ですけども、そういう事があったですが、相手を軽う見ると、軽う見えてきたらです。
 自分自身がお軽さんである事を知らにゃいかんです。相手が拝めない時には、自分自身がもう信用出来なくなっておるとき、自分自身が拝めなくなってる。信心とは我と我が心が拝めるようになる稽古と言う事。我と我が心が拝めれる様に段々なって来るときです、初めて自分の周囲の全てが拝めれるようになり、又はすべての人が拝めれるようになる。そこにいわゆるおかげがある。例えば自分達の周囲にあります軽蔑、私は本当にあなたを軽蔑するよと言わにゃおれないような場面に直面する事がございます。
 たとえば子供の時に脳膜炎を患った、普通でいうならあれは馬鹿というわけです、一寸足りないと言うわけである、成る程たりないかも知れません、また事実たりないでしょう、けど足りない人をじっと信心の目で見てご覧なさい、もう本当にそれこそ、そのままが仏様のような神様のような言動、言う事する事の中に、それを感ずる事があります。とてもこの人の真似は私はできんと言うところがあるのです。
 先ず一番身近な手近なところから、私が家内を感謝しとると言うて、お前は馬鹿じゃからと言うて馬鹿を連発すると言うことはです、たとえそれがです、まあ、あなた私にばっかり喧しく言うてからと家内が言います、それはまあ「家内だから言うとだ、人には言われん、お前だから言いよる」と、言うなら「アイラブユウ」の表現なんだと、と言う様なこと言うてごまかした。本当に私は愛しておるならね、本当に家内のおかげであると思うならね、お前が馬鹿じゃからなんと言う事は私は言えないと思う。
 それを迂闊にも何十年間いうてきたと言うことが、ようやく初めてここ一月位なりましょうか、家内に馬鹿と言わんで済むようになって来た。「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし」と、まず自分の一番身近な親やら、子やら、家内やら、兄弟やら拝める私達にならして貰おう。そして隣人、いわば周囲の人達、特に自分と利害関係の伴うている人達、関係を持っている人達をもう一ぺん見直させて頂こう。
 そしてとてもあの人はあそこだけは真似の出来んという美しいものを持っておられたり、すぐれたものを持っておる、そこを拝んで行く、そこを尊重して行こう、その尊重の度合いが強うなって来れば来る程、あなたは助かっておると言うことになります。自分の周囲がみな仏様に見え、神様に見えると言う事は、もうあなたは極楽に行っていると言う事なのだね、仏様にとり囲まれておるのですもの、その為にはひとつ本気でお互い話を聞けば、頭で分かるのですけども。
 それを心でこなそうとしない、心でこなそうとする時にです、自分自身が分かって来る。親先生が、拝めなくなったと言うのは、心でこなそうと努力し出したところから拝めなくなって来た。それは自分自身が拝めなくなって来た、ただ形で拍手打って御結界を拝むだけならば、頭で分かった事を形で表しただけである。頭で分かった事を心でこなして行くところにです、自分自身が有り難うなって来る。
 その有り難いと言う心で周囲を見ると、いわゆるあれもおかげ、これもおかげであり、あの人も立派であり、あの人はとても私だんかなわんと言う様な、人達ばかりになって来る、いわば周囲が神様仏様と感じられる様になって来る。そこに拝まなければおられない、そこには又拝まずにはおかんと言うかね、そこに初めて拝み拝まれる合掌の生活があると思うです。
 「人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と、ここにはっきりと断言してあるのでございますから、本気で相手を有り難く尊重出来れるおかげを頂くために、本気で自分自身を見極めさして貰い、相手がお多福さんに見える時には自分自身が「ヒョットコ」であることに気付かせて頂いて、いよいよ有り難いものを追求していく、それは心でこなして行く、心に練って行く、心で消化して行く、それが形に表される、教祖様はどげな事が家の中であっても、粗末な言葉を使うなと。
 あなたこなたと言うて仲睦まじう行けと言う様な事を、御伝記の中に仰しゃっとられますね。お役所の方から、神様を拝むことを禁止されなさった、今までお参りがあり、お取次ぎなさった事をです、だから一時それを取り止めなさった。だから家の中はです、どうして食べて行くじゃろうかと言う様な事にまで心配しなさらなければならない様な時があった。それでも陰で拝ませて頂けばよいと。区長さんは言うて来なさったけれど神様から、いわゆるお上からお許しのない限りはもう拝みませんと言うてそれを断られた。
 そういう時分に、いうならば家の中が暗うなって来た時分に、そういう事を家庭の方達に言うておられますね。家の中が難儀なとき、困った時、暗くなった時ほどです、お互いが信頼し合い拝み合い、それこそ言葉遣い一つでも苛々のあまり、お前が馬鹿じゃからと言った事にならん様に、あなたこなたと言うて仲良くして行けと言うような事を教えとられます。しかも今日のお言葉、「人を軽う見たらおかげはなし」と、仰せられるのですから、成る程自分がおかげを受けられない筈だと言う事を思わにゃ。
 おかげと言うことは、まず自分の心であります、自分の心が成る程いらいら、もやもやがあったり、有り難いと頭で分かっとるけれども心の中で有り難いと感じられなかったりする時には、もう既に助かってない証拠ですから、心におかげを頂かんならん為にもです、そこんところに焦点を置いて、信心を進めて行きたい、それが形に表される。そこに何とも言えんと言うかね、有り難い拝み合いの生活、いわゆる信心生活の第一歩と言うのはそういう事ではなかろうかと思いますね。
   どうぞ。